王の顔は実話?実在した王と側室のカヒはどんな人物?

韓国ドラマ

2014年に韓国で放送されたドラマ「王の顔」は、ソ・イングクさんが主演のとても見応えがある歴史ドラマでした。

このドラマは実在する人物が登場していると言う事で興味がある人も多いのではないかと思います。

そこで、今回は『王の顔』は実話なのか?

そして実在した王とカヒはどんな人物だったのか?という事に焦点をあててまとめてみたいと思います。

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王の顔は実話なのか?

『王の顔』のあらすじと感想はこちらの記事にまとめていますので、是非チェックして下さいね。

『王の顔』は、クーデターによって王位を退いた朝鮮王朝15代国王の光海君(クァンヘグン)の若かりし日々を中心にして、彼が王位継承をするまでの道程を描いた作品です。

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では、王の顔で描かれている話は実話なのでしょうか?

結論から言うと、『王の顔』は、時代背景や起きた出来事も根本的に史実に沿って描かれています。

そして登場人物もほぼ実在の人で、朝鮮王朝14代国王の宣祖、15代国王の光海君やその兄の臨海君、カヒに至るまで実在した人物です。

それを基盤にした上で「顔相」と言うテーマが新たに加えられて物語が展開して行く事から、とても奥行の広い面白いものになっています。

ドラマの中では光海君の父親である宣祖と光海君との関係、そして、その二人に関わるカヒと言う名前の女性の存在が最大の見どころとなっているのではないでしょうか。

そんな彼らが史実上、どのような人物だったのかを見て行こうと思います。

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宣祖(光海君の父)について/王の顔は実話?

宣祖(ソンジョ)は、李氏朝鮮時代の第14代国王です。

1552年12月26日に生まれ、1608年3月17日に56歳で亡くなっています。

父親は徳興大院君で、母親は河東府大夫人鄭氏です。

ちなみに、宣祖は、韓国時代劇『オクニョ』に登場している13代王、明宗の甥にあたります。

その明宗(ミョンジョン)には息子が一人いましたが、12歳と言う若さで亡くなってしまいました。

そこで明宗の養子になった河城君(ハソングン、宣祖の王子時代の呼び名)が1567年に15歳で14代国王となったのです。

明宗はもともと病弱だったのと心労も重なって33歳の若さでこの世を去ったそうです。

明宗が亡くなった時、宣祖はまだ未成年だったので、彼に代わって明宗の正室、仁順王后が代理で政治を行い、16歳から宣祖が自分で政治を行うようになりました。

本来なら王になるのは、正室が生んだ子でしたが、宣祖は庶子(正室ではない女性から生まれた子)だったのでコンプレックスを抱えていたようです。

しかも、朝鮮王朝時代に初めて庶子として王位についた最初の王でもありました。

この宣祖のコンプレックスが、このドラマでは観相師により「王になれない相」であると言い換えられたというような意図が、もしかしたらあったのかもと想像するのも面白いような気がします。

宣祖は、日本で戦国武将として有名な豊臣秀吉が朝鮮に侵攻した文禄の役の時の武将でした。

しかし、王朝では平和な時期が長かったので国防に手を抜いていたために、豊臣軍にあっと言う間にやられてしまいます。

この時、宣祖はあろう事か都と民を捨てて、直近の者達と一緒に逃げていたので、後々まで民から冷たい目で見られてしまいます。

そんな頼りない王ですが、配偶者である懿仁王后との間に子供は出来ず、最初の側室の恭嬪金氏との間に二人の王子が生まれています。

その王子が長男の臨海君と二男の光海君でした。

ドラマの中では宣祖の最後は、カヒに毒入りのお茶を飲まされた事が原因でしたが、実際はどうだったのか?と言うと残念ながらその記録は残ってないようです。

ただ、「朝鮮実録」の中には異常な死に方をした事が書いてあるようで、なんと、朝鮮王朝に宣祖を合わせて26人の王様がいた中で9人と3人の世子が毒殺の可能性があるということで、謎は深まります。

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第15代王になった光海君について/王の顔は実話?

光海君(クァンヘグン)は宣祖の二男として1575年6月4日に生まれました。

光海君は豊臣軍が朝鮮に攻めて来た時、兄の臨海君が敵の捕虜になって屈辱を受けたのとは対象的に武勲をあげています。

長男の臨海君が王位を継承するのが原則でしたが、光海君のほうが力量的にも兄より優っている事から次の王にふさわしいと世間から認められたのです。

このあたりはドラマの中でも分かりやすく描かれています。

そんな彼ですが1623年に仁祖(第16代国王)からクーデターを起こされて廃位になっています。

仁祖は、宣祖の二番目の側室である仁嬪金氏が生んだ定遠君の長男になります。

光海君から見れば甥です。

その甥から追われて逃亡をしたのですがすぐに捕まり、斬首は免れたものの、正室や息子(廃世子)夫婦と一緒に島流しにあってしまいます。

結局、息子夫婦は自殺に追い込まれ、正室は首をくくって死んでしまった、あるいは病死したとされました。

独りぼっちになってしまった光海君ですが、その後は済州島に流され、そこで18年間生きた後、1641年8月7日に66歳で亡くなったそうです。

この光海君なんですが、王時代に反対派閥から王位を脅かされ続けました。

そこで、臣下たちは反対派閥が支持していた光海君の兄の臨海君を殺したのです!

さらに宣祖の正室が亡くなった後に、次の正室・仁穆王后が生んだ永昌大君を最も残酷なやり方(オンドル(床暖房)の部屋に閉じ込めて焼死)で殺しています。

その時の永昌大君はまだ8歳でした。

54歳の時にやっと授かった宣祖にとっては待望の嫡男だったので、あの世できっと嘆いていたでしょう。

日常茶飯事に行われたこの時代の権力争いは本当に恐ろしいですよね!

まさに骨肉の争いです。

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キム・カヒ(キム尚宮)について/王の顔は実話?

「王の顔」のドラマの中では、カヒは光海君の幼馴染でお互いに慕い合う仲でしたが、王にふさわしくない相を持つ宣祖の足りない相を補う女人として、好きでもない相手に仕えなければならない不幸な運命を背負う女性として描かれていました。

このカヒと言う人物、史実(歴史上の事実)でも宣祖と光海君の両方に仕える尚宮として実在していました。

その尚宮がモデルとなって登場しています。

では実際のカヒとはどんな人だったのでしょうか?

朝鮮実録には金介屎(キム・ゲジ)と書かれています。

生年月日など分からず謎多き女性のようで、野史(非公式に作成された歴史書)によると、1600年前後に宮廷に女官として入っています。

外見は平均以下の容姿ですが仕事のよく出来る女官だったそうです。

そして、どうやら光海君よりも少し年上だったみたいです。

そこで当時、世子であった光海君に出会い、お付きの女官となるのですが、やがて光海君の父である宣祖の目に留まり、寵愛を受けて特別尚宮になり、それ以降、金尚宮と呼ばれるようになりました。

ドラマの中では、宣祖の側室になった時に、「夜伽はしません」ときっぱりと言い放っていましたが、これはやはり光海君の事が好きだと言う設定になっていたからでしょうね。

史実の中のカヒは光海君を王位に就けようと光海君を支援する勢力と手を結び、宣祖の唯一の嫡子である永昌大君を死に追いやり、その母である仁穆王后を失脚させ、幽閉しました。

カヒも反対勢力を潰そうとした臣下の一人だった訳です。

しかし、クーデターで光海君が廃位されてしまった時、彼女は処刑されてしまいます。

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王の顔は実話?実在した王と側室のカヒはどんな人物?まとめ

今回はドラマに登場した主要なこの三人の人物たちの事を取り上げてみましたが、歴史をたどると、宣祖と仁穆王后との間に永昌大君が生まれる前に、宣祖の唯一の嫡女である貞明公主がいて弟と共に宣祖に溺愛されていたようです。

この嫡女は婚姻して7男1女を授かり穏やかに暮らし、83歳で亡くなったそうです。

そんな事から彼女は6人の王の時代を生き抜いたまさに朝鮮一長寿の王女でした!

長崎県対馬市には豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に連れて来られた宣祖の娘とされるお墓があるそうですよ。

最後に…

カヒがモデルとなって登場するドラマは「王の顔」の他に、「華政」「王の女」などがあります。

それぞれのドラマの中でどのように描かれているのかを比べながら見てみるのも面白いかもしれませんね!

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